「心の病気」を理解してもらうことの難しさ

 心はどこにあるのか。心の働き、精神活動はつまるところ脳内の信号伝達などの活動なのだろう。 ということは、心は脳にあるわけで、「心の病気」は「脳の病気」と考えられよう。

 さて、「心の病気」=「脳の病気」においては、異常な「性格」「性癖」「行動」が、病気によって引き起こされている可能性が大きい。このことが理解されていないと、患者は「困り者」「変人」などの烙印を押される一方、周囲の人たちもそんな患者の「奇行」の迷惑を被ることになると思われる。

 それならば、病気に対する理解が進めば、病人も、周囲の人も過ごしやすくなるという希望がある。そんな観点から、私は健常者と患者の「相互理解」が進んで欲しいと強く願う。一人の精神疾患者として。

 健常者の皆さんには、なぜ患者がそのような言動をするのか、それに対してどう接するべきなのかを、ぜひ理解して欲しい。

 患者は、決して自分を責めてはならないが、心を許せる相手が身近にいるならば、苦しい胸の内を打ち明けられれるのが望ましいだろう。それが叶わなくても、信頼できる主治医やカウンセラーに巡り会い、適切な治療を受けられれば、苦しみから早く抜け出すことが出来るだろう。
 このようにして、患者と健常者が理解し合える職場や社会が実現されることを強く願う。

 しかし、どうしても心の病気、精神疾患は治ったのか治っていないのかが傍目には非常に分かりにくい。どこまでが「症状」で、どこからが本人の「性格」「行動」「性癖」であるのかを見極めるのが難しいからだ。

 周囲の健常者から見れば、頭では「こういう病気ではこういう症状が起こる」と分かっていたとしても、目の前の身近な患者の行動を見ていると、

    「やっぱり怠けているんじゃないか?」
    「もう治ったのに、甘えているんじゃないか?」
    「あいつは元々、そういう性格なんじゃ無いの?」
    「努力が足りないんじゃ無いの?」

というふうに見えかねない。そして、実はうつ病が治りかけの場合などには、周囲のその目が、せっかく立ち直りかけた患者を再び苦しみのそこへと突き落としてしまいかねない。

 だが、その一方で、正直なところ、私自身、その境界線がよく分からなくなることがある。

    「自分は、もう治っているのに怠けているんじゃ無いのか?」
    「完全に治っていないにしても、症状が軽くて頑張れる時には、もっと頑張るべきでは無いのか?」
    「俺って、もともとこんな怠け者なんだろうか、甘えん坊なんだろうか?」
    「俺って、「やる気が出ない」のを病気のせいにして、努力を怠っているんじゃないか?」

 病気を免罪符にして、他人にも自分にも言い訳をし続けているうちに、振り返ったら「言い訳」という足跡しか残っていないような人生にならないよう、その点はしっかりと肝に銘じておかねばなるまい。

追記
 本文中で、うまく表現できなかったので、補足したい。「追記」としたが、むしろここからが、強調したい部分なのかも知れない。

 さて、患者の辛さを健常者に対して、次のように弁護したとする。

 「私は(彼は/彼女は)きっと、病気のせいで、こういう性格のように見えてしまい、病気のせいで、こういった行動を取ってしまうに違いないんです。病気が治れば治るんです。だから、それまでの間、大目に見てやって下さい。優しく接して下さい」

 しかし、こうした私の(彼の/彼女の)行動は、単に本人の怠惰さや甘えによるものかも知れない。
 そのことが明らかになった時、何が起こるだろうか。

 私が、彼が、彼女が、それまでに周囲の人から受けた善意を裏切り、信頼を失うことは間違いない。しかし、それだけではない。

 こんな怠惰で甘えた私の、彼の、彼女の陰で、本当にそのような症状で苦しんでいる人たちに対する理解を妨げるばかりか、むしろ、非常に困難なものにしてしまう。

 患者と健常者との相互理解を進めようとする活動には、非常に危うい諸刃の剣をふるうことなのだと、これを書きながら自戒の念を強くした。