フォーカシング

 今日は心理カウンセリングの日。なかなか気分の波が安定せず、特に鬱状態の落ち込みから抜け出すのが難しい、と相談したところ、自分の心理状態を観察し、コントロールする方法(でいいのかな?)の一つである、「フォーカシング」という技法を、実際に体験しながら指導して頂いた。

 約30分に及んだ先生とのやりとりについて、詳細を記述すると長くなりすぎる。自分のための備忘録として、フォーカシングという単語だけ、ここに書き記しておく。
 ただ、印象的だったのは実際にフォーカシングを始める前の先生からの注意事項。この技法では、例えば自分の中にある「鬱」という感情に対して、「敵対するものとして攻撃することを考えるのではない。攻撃すれば、向こうも反撃してくる。そうではなくて、相手がどんな奴なのかを知って、仲良くなる」と言う具合に考えるということ。


 「あれ?」と思った。


 私とは違う病気だが、ずっとお付き合いする病気を抱えておられる知人が、いつも「ライフワーク仲間だね」と声をかけて下さる。お互い、ちょっと厄介な「伴侶」と上手に付き合っていこう、その方法を探していこう、という具合に。
 長らく私は、自分の躁うつ病に対して「くそ〜、完治だか寛解だか知らないけど、いい加減、早く治らねぇかな、畜生!」と言う具合に考えていたように思う。それが、病状が安定してきて余裕が出てきたことが大きく影響していると思うが、「気分屋で意地悪な『躁うつ病君』、僕は君と仲良くなりたいんだよ〜」という具合に捉えるようになっている気がする。このブログのプロフィール欄も、そんな思いからしばらく前に少々書き換えた。
 もちろん、「完治」ではなく「寛解」を目指すのだという、躁うつ病の治療に対する知識も影響しているだろう。しかし、医学的な用語ではなく、知人からの「ライフワーク」という言葉が、私の頭と心をほぐしてくれたように感じている。薬で症状を抑えた状態を維持する「寛解」。治療の根本がここにあることに変わりはない。だが、この専門用語、ちょっと堅いというか、重いというか。「カンカイ」よりも「ライフワーク」の方が、口に出してみても何となく楽しげで、カッコイイ感じがするではないか。配偶者同様、一生のお付き合い♪

 話を元に戻そう。一度フォーカシングを体験しただけなので、もちろん理解や知識はまったく不十分である。しかし、今日、学んだことのメモとしてここに記すならば、フォーカシングでは「鬱状態」とか「痛み」という辛い症状を、客観的によーく観察し、それが「どんな奴」なのかを具体的に表現し、それを自分の一部として受け入れる、そんな心理療法ということらしい(詳しいことは、きっとネットで調べてしまうよりも、カウンセラーの先生に委ねる方がよいだろう)。

 10年以上に及ぶ治療や多くの方々の理解と助言、そして「躁うつ病君」との付き合いの長さから、最近では「ああ、今日はどうやら『躁君』がはしゃいでるなぁ」とか、「『鬱君』、また来ちゃったのか。君と一緒にいると、しんどいんだよなぁ。何とかならない?」という具合に、自分の状態を、比較的客観的にモニターできるようになってきたように感じている。これを取っ掛かりにすれば、「躁君」や「鬱君」を相手にフォーカシングに取り組めそうな気がする。今日、教わったとおりに上手くフォーカシングできれば、「躁君」だったり「鬱君」だったりする「躁うつ病君」とも、仲良くなれる日が近づいてきたような、そんな気がする。
 もっとも、あんまり焦ると気分屋の「躁うつ病君」はヘソを曲げてしまうかも知れない。そのうち仲良しになれると思って、ぼちぼち行こうか。