何だったかな?

 持病に振り回されているうちに、いや、病気のせいだけじゃないな。いろんな事を言い訳にして、現実に向き合うことを避けて、逃げ回ってきた気がする…。そんなことをしているうちに、悪い癖がすっかり身についてしまった。

 落ち込んでいる時、行き詰まっている時にはしばしば、色々な分野で活躍している人たちを見て、ますます自信を無くして落ち込んでいく自分がいる。彼らと自分を比較して、ついつい自分を卑下してしまうのだ。

 見る者を楽しませ、勇気づけてくれるはずのスポーツや、楽しませてくれるはずの芸人さん達を見ても、「彼らは自分よりずっと若いのに、一生懸命頑張って、活躍している。それにひきかえ、自分と来たら…」と、仕方のないことばかりを考えては、自分の不甲斐なさを嘆き、卑屈になっては勝手に落ち込んでいる。

 過日、そんな悩みを知人に打ち明けたところ、「他人と自分を比較してみて、何かが変わりますか?」と言われ、ハッとさせられた。それからは、その言葉を思い出しては、一所にうずくまり続ける自分に発破を掛け、一歩を踏み出すように試みてはいる。

 だが、長い間に染みついた悪癖は、そう簡単には修正されない。気がつくと、いつの間にかまた他人と自分を比較して勝手に落ち込む自分がいる。

 そこで落ち込むのをちょっと我慢して、活躍している彼らと自分とでは、何が違うのかを考えてみた。

 どの分野にせよ、第一線で活躍している人たちは、きっと何かしら持って生まれた才能があるのだろう。だが、それだけではないはずだ。懸命の努力。才能があろうが無かろうが、努力無しに花咲くことなどあり得ないはず。考えるまでもない。当然のことだろう。

 それならば、活躍している人たちと活躍できずにいる自分を隔てているものは、その「努力」でしかないだろう。しかし、私はその「努力」ができないことを、病気などのせいにして逃げてきた。

 さらに考えてみる。努力できる人は、なぜ努力できるのだろうか。そうだ、努力できる人は、具体的な「目標」を、あるいは「夢」を持っているのだ。そうに違いない。

 自分だって、かつては夢を叶えようと、受験勉強や就職活動を、自分なりに努力してくぐり抜けてきたはずだ。だからこそ、夢を実現できそうな職業に就けたのではないか。そして、医師の診断による病名こそ下されていなかったものの、学生時代には既に発病しており、同じような症状に苦しめられていたではないか。

 しかし、ここで重要なことを忘れていたことに気付いた。自分の夢って、具体的にどのようなものだったのだろうか?その夢を実現するためには、どんな目標を立てるべきなのか。その実現に向けて、どんな努力をしていけばいいのか。こんな単純で、重要なことを自分は忘れていたのだ。言い訳ばかりして、逃げ回っているうちに。*1

 近頃、「誰々は『持っている』」というフレーズが、しきりに使われている。以前から使われていたのかも知れないが、日ハムに入団した齋藤佑樹投手の影響も大きいような気がする。

 彼は「仲間を」持っている、と語った。私は「持っている」と言う言葉は、「才能を持っている」とか「実力を持っている」、「経験を持っている」「運を持っている」「ツキを持っている」などという意味合いで使われているのだろうと、漠然と感じていた。

 だが、そればかりではないのだと確信した。明確な「夢を持っている」ことが、何よりも大切のだろうと。

 さーて、何だったかな?私の夢は?私もまずは、もう一度「夢を持っている男」にならなくては。才能は自分ではどうしようもないが、夢ならば持つのは自由だからな。実現可能な範囲にすべきではあるが。

 夢を定め直し、目標を設定し直して再スタートを切ろう。まだ遅くはないはずだ。*2

*1:そういえば、先に触れた「他人と自分を比較してみて、何かが変わりますか?」と言って下さった方が、同時に「目標を見失っているのですね」「自分の目標に向かって歩いて行けばいいんですよ」というようなことも言って下さっていたことを思い出した。だが、その時の自分は、頭では分かったつもりでいても、十分に消化できていなかったようだ。何となく分かったつもりになって、「夢」や「目標」の再設定という作業を曖昧にしていたようだ。だから、いつまで経っても他人と自分を比べては落ち込むという無益な作業を繰り返しているのだろう。
 今頃になってようやく、知人から頂いた助言を咀嚼できつつある、そんな気がしてきた。

*2:それにしても、我ながら四十路にもなってこんなことをつらつらと考えているなんて、恥ずかしい。いやいや、めげない、ぼやかない、卑下しない。他人よりちょっと(だいぶ?)回り道をしてしまっただけのこと。焦ってもいいことなど無いさ。今更ではあっても、気付いたのだから救いはあるに違いない。そう、気持ちの切り替え、切り替え。