森の中の人々

 厄介な病気を抱えていると、つい、自分ばかりが不幸に思えてしまう。私は過眠症で睡眠時間が非常に長く、起きているときも頭がすっきりしないことばかり。そんな我が身をしばしば不幸に思い、不公平感を抱いてしまう。つい今し方までも、そんなことを考えていた。

 でも、自分よりももっと重いハンディキャップを背負いながら、懸命に生きている人たちがたくさんいる。それに、よく考えれば健常者だって、誰もが皆、自由に思うがままの生活をしているとは言えないだろう。人は皆、それぞれの事情で何らかの制約を受けて生活しているのだろう。誰もが皆、与えられた条件の中で、精一杯生きているのではなかろうか。そんなことをつらつらと考えていたら、学生時代に歌った合唱曲の歌詞が思い出されてきた。

木は自分で動きまわることはできない
神様に与えられたその場所で
精一杯枝をはり
ゆるされた高さまで一生懸命伸びようとしている


そんな木を友達のように思う

 これは星野富弘さんが自身の絵に添えた詩のようだ。初出は未確認だが、「愛、深き淵より」の177ページに収められている。

 星野さんは、事故で頸髄を損傷し、首から下の運動機能をまったく失ってしまったにもかかわらず、懸命の努力によって、口にくわえた筆で素晴らしい絵と詩を世に送り出しておられる。私が説明するまでも無く、多くの方がご存じのことだろう。

 森の中は、光のよく当たる場所、暗い場所、水分の多い場所、乾いた場所、土の肥えた場所、痩せた場所と様々に異なる。しかし、木はその場所から自由に動くことはできない。条件がよければ、太く、高々と生きられるかも知れない。だが、条件が悪ければ、太ることもできず、伸びることもままならないだろう。運が悪ければ、短い命で枯れてしまうかも知れない。それでも木は、文句も言わず(言えず)、精一杯、一生懸命生きようとしている。

 星野さんは、動くことができなくなった我が身を、樹木になぞらえてこの詩を書かれたのだと思う。だが、どんな人でも皆、種類や程度の差こそあれ、与えられた条件の中で、様々な制約を受けながら、精一杯生きているはず。誰もが皆、森の中の樹木のように生きているのかも知れない。そして、私も。